時の断片U:ある貴婦人の記録 「冗談じゃないわ。なんで私が頭を下げてなくちゃいけないのよ!」 「いや、だがね、ロゼ。私の立場も考えて……」 「なら貴方一人で行けばいいじゃない。私はあなたのアクセサリーじゃない。  単にあなたが目立ちたいそれだけのために私を連れて行くっていうのなら、  私の宝石をいくらでも貸してあげるわ。……馬鹿にするのもいい加減にして!」 激昂がフロアを突き抜けて轟いた。 比較的広い屋敷の中、使用人たちにとってそれは、 いつもどおりの些細なトラブルでしかなかったが、 やはり奥方の金切り声を聞くのはいい気分がしないのだった。 セントフィールドの家は商人の家だ。 先代が築き上げた財を元に、息子達が支店を次々に広げた大商人の家系である。 その三男坊こそこの屋敷の主人で、商売の駆け引きこそ得意ではあったが、 妻に対しては実に頼りない男で、毎度のようにこのように怒鳴られているのであった。 「……そうかい、わかったよ、ロゼ。今日の歓待は私一人で行うことにする。  でも……うん、いつか、その、頼むよ、可愛いロゼ」 「――――」 妻からの返事はなく、もう話すつもりもない、とばかりに窓に顔を向けて扇で視線を遮っていた。 主人は諦めて妻に背を向け、階段をとぼとぼと下りていった。 元々はこんな風ではなかった。 誰もが認める幸福な結婚を果たし、二人には神でさえも祝福するだろうと、そう思われていた。 けれども、時の流れは容易に人を変え、呆気なくその純白の婚礼を色褪せさせていく。 かつての華やかさは皺の数に反比例するように失われ、今では針のような鋭さばかりが残ってしまった。 それを一番気にしていたのは他でもないロゼ・セントフィールド自身だった。 こんな風にしか振舞えない自分を、彼女は誰よりも誰よりも嫌悪し、呪い、認めたくなかった。 それでも生来の気質が彼女をよりそう振舞わせ、 もはや誰一人としてそれに歯止めを掛けられなくなっていたのだった。 (……薬、そう、薬を) 医者から薦められた悪魔殺しの妙薬が、唯一彼女を安堵させる手段になっていた。 そうでもなければ気を鎮めることも最近では難しい。 意味もなくメイドに当たってしまって、もう何人がこの屋敷から出て行ったことか。 それだけロゼは自分を嫌っていた。 そんな風になったのはかれこれ三年ほど前からだ。 ある時を境に、かつて愛した主人の姿が鬱陶しく、無様なものに見え始めた。 それどころか、そんな男を愛してしまった自分自身への憤りが止まらなくなり、たびたび爆発するようになった。 けれども、今の生活をロゼは捨てられない。 だから屋敷を出て行くことも、主人から離れることも出来ずにいて、 そういう欲深さもまた、彼女自身により一層の自己嫌悪を与えるのだった。 「…………」 何度飲んでも不愉快な薬の味が、しかし彼女に理性を取り戻してくれる。 苦いからこそ守れるものがあるのだ。 けれど、その苦さは時に必要のない記憶を彼女に呼び戻させたりもする。 怒りで押し殺しているものが押さえきれなくなる瞬間だ。 十年前。 と思考したところでロゼは首を大きく左右に振って、記憶の再生を封じ込める。 それだけは思い出してはいけない、とばかりに。 それでも、微かに残った記憶の残滓が彼女の理性に一滴の毒を落としていく。 甘い、甘い毒だ。 しかしそれこそ、彼女が何よりも望んで、けれど永遠に手放した幸福な記憶で。 「    ……」 喉でその名を押し殺す。 かつて、翼のない頃の、地の底は――そこで彼女は自分の頬を叩いて目を覚ました。 もう随分疲れてしまった。体は望みの限りの美しさを手に入れたが、 その分、心の疲れは救いようがないところまで辿り着いてしまったのかも知れない。 ロゼは体をベッドに放り投げて、目を閉じた。 いっそ全て……と、唇が動いた。 ただ夕暮れの朱い光だけが彼女を照らし、やがて夜になることを空が告げていた。 世界がまたひとつ、少しだけ終わったような気がした。