時の断片T:ある門番の記録 かつて騎士に憧れた少年がおりました。 少年の名はミゼール・テクスト。 武門の家でもなく、けれど平民の出でもない。 一応は文官の父と女官の母を持つ、そこそこの家に生まれた少年です。 そんな少年が騎士に憧れを抱くことは、決して間違いではなかったのですが、 あまりにもそれはロマンシズムに溢れすぎた幻想でした。 もとより少年はそれほど力が強いわけでもなく、剣の腕が長けているわけでもなく、 騎士公との縁があるわけでもなく、なおかつ、気が強いほうでさえありませんでした。 心は弱く、力も無い。 どこの国を巡ろうとも、そういう非力な少年を騎士にしたがる国があるはずはないのです。 それでも騎士を目指すことを諦めなかった少年は、やがて青年になり、 騎士見習い――もとい、一兵士として国の外れ、小さな街の警備兵となっておりました。 夢に足がかりこそあるものの、こんな場所では武勲を上げられるわけがなく、 着実な昇進も望めるはずもありません。 毎日は淡々としており、羊飼いの少年や、畑に向かう中年女性などと会話をして、 ある時は下世話な話に笑い、ある時は愚痴を聞いて共に怒り、ある時は同僚と共に悲嘆に暮れ、 そんな調子でただ漫然と、漫然と毎日を過ごしておりました。 挫折こそしていませんでしたが、希望の灯火は小さく細り、瞳の輝きも気がつけば灰色に澱み始めておりました。 そんな暮らしの中でミゼールは、村一番のお転婆娘と関わることになりました。 彼女の名はロゼ。 よく働き、よく歌い、よく遊び、そして良く笑う娘です。 美醜で言うなら間違いなく美の方でしたが、男勝りで自分勝手な性格が玉にキズで、 村の男たちで彼女に振り回されたことのない者はいないというほど。 そのせいあってか、誰もが彼女を見るとウンザリしたような顔を浮かべるのでした。 例に漏れず、ミゼールもまた、彼女の蛮勇ぶりに振り回されて、 警備の仕事をほっぽって狩りに連れ回され、魚釣りと称して川に叩き落され、 よくわかりませんでしたが彼女の畑を耕すのを手伝わされたりしました。 そういうのはミゼールにとって悪いものではありませんでした。 退屈な村の暮らしの中で、数少ないトラブルめいた平和な時間。 漫然と村の門で立ち尽くしているよりも、よっぽど価値のある時間に思えたのです。 やがて二人は当たり前のように交際を始め、当たり前のように幸せな時を過ごすようになりました。 ミゼールが非番になると、ロゼはこの辺りで一番大きなオルゲンスの街まで行きたいとねだり、 ミゼールは乗りなれない馬を駆ってその頼みを叶えました。 華やかな街の暮らしに憧れていたロゼにとっては、村の外はそれだけで新鮮な世界で、 そして隣を歩く幸いな友人が傍にいることで、安心してオルゲンスの街並を歩くことが出来ました。 一方、心から満足げに笑うロゼを見て、ミゼールもまた幸せでした。 騎士にこそなれないとは言え、こうして一人の女性を守りながら歩けるのなら、 それもまた男冥利に尽きるというもの。 たとえ相手が騎士を必要としないだけの蛮勇の女傑であるとしても、 この瞬間だけは、ミゼールにとって彼女は守るべき「主」でした。 二人はたびたびオルゲンスに通うようになりました。 村の暮らしは決して豊かではありませんでしたが、 それでも月に2〜3度、街に通って露店を回るだけのお金はありました。 ロゼはよくねだる女性でしたが、けれどもミゼールにとってはそれもまた悪くない提案でした。 どのみち、国から支給される僅かばかりの給金の使い道などありませんでしたし、 ロゼが喜ぶのならそれでもいいかと思ってもいたのです。 そんな暮らしが一年ほど続いたある日、ロゼは唐突にとんでもないことを言い出しました。 「私、オルゲンスで働こうと思うの」 唐突な提案にミゼールは上手く頭を働かせることが出来ません。 彼女の道理は割と理に適っていました。 この村で小さな畑を耕していても、子供が出来ればそれを守ることは出来ない。 収穫から得られるお金は決して多くはなく、何よりお金に換えることもまた一苦労だ。 それなら今、この土地を売ってオルゲンスに移り住み、何か仕事を探した方が賢明なんじゃないのか、と。 一応に学問を学んだミゼールから見ても、その発案は確かにその通りだと思えました。 この村の財政状況は、決して良いものではないのです。 出るだけの金があるのであれば、この村は出たほうがいい。ミゼールは常にそう考えていました。 ですが、既にこの時、ミゼールの心ではその理性を拒絶するほどに、感情が渦巻いておりました。 不安。その鉛色の感情は、脆いミゼールの心を容易く打ち砕くほどの威力を持っていたのです。 ロゼがオルゲンスに行くということは、会える機会が減るということです。 一年前のミゼールでは考えもしなかったことですが、今ではロゼへの依存心は恐ろしく高まっていました。 彼女と共にいられるのなら幸せだ、という思いは反転し、 彼女と共にいられないことが不安だ、という気持ちにすり換えられました。 なんという悪魔の所業。焼かずともいいものを妬かずにはいられないだけ、 ミゼールの心は鉛色の炎で満たされていたのです。 ですが、その炎に妬かれながらも、ミゼールは行くな、とも頑張れ、とも言えませんでした。 もちろん、自分も共に行く、などということは、間違っても言えませんでした。 ミゼールはロゼと違い、今の職を捨てる勇気がなかったのです。 [minaduki様がログインしました] そうして憂鬱な顔で門番をしていたミゼールの元に、一人の少女が声を掛けました。 魔術師のローブを被った、変わった少女です。 「……なんだい、僕に何か用なのかい、君」 「あなたはここに居ちゃいけないわ。  ここで過ごす一分一秒が、いずれあなたの人生の何年、何十年に黒い影を落とすの。  どれだけ悔やんでも底がない後悔よ。そうなる理由を、あなたは今、知っている。  何をすればいいか、わかるわよね?」 「それは何の占いなのかな、お嬢さん……お嬢さん?」 [minaduki様がログアウトしました] 気がつくと目の前には誰もいません。 ミゼールは自分が何と会話していたのかもわからなくなっていましたが、 いきなり言われた言葉は、確かに彼の心を掴んで離しませんでした。 「……後悔する、か」 胸に抱くのものは二つ。 騎士になるという願望と、ロゼという希望です。 どちらが重いかと問われたとすれば、ミゼールに答える術はありませんでしたが、 今この瞬間を見過ごすことで、ロゼがいなくなってしまうのは確かでした。 「そして僕は、後悔する……?」 思いを未来に馳せれば、確かに後悔すると思いました。 幾年も騎士への思いを断ち切れなかったミゼールです。 恐らくは、ロゼへの思いもそのとおりになるでしょう。 「…………!」 駆け出してロゼの家へ行くと、そこは既にもぬけの殻でした。 ロゼはもうオルゲンスに向かっていたのです。 慌てて馬を駆ろうとして、ミゼールは一度、自分の家に向かいました。 そして必要なものだけをまとめ、急ぎオルゲンスへ。 もはや剣は不要でした。 必要だったのは、使う機会のない剣よりも、もっともっと大事なもの。 それは勇気。 何かを手にするために、何かを捨てる。 その勇気こそ、彼が今、もっとも必要としたものでした。 走らせた馬は風となり、街道に砂煙を巻き上げていきます。 まだ、間に合うと。 ミゼールはそう信じて駆け抜けました。 −15年後− オルゲンスの街に小さなパン屋がありました。 その店先でいつも頬杖をついている男、それがミゼールでした。 売れないわけでもなく、でも売れるわけでもない。 いつも決まったお客が決まった数を決まった時間に買いに来て、そして、それだけ。 定期的な収入はあるとはいえ、決して豊かな暮らしではありませんでした。 ミゼールは一人でした。 妻はもう十年以上も前に出て行って、今では豪商の婦人をしています。 小さな夢を持って始めたパン屋も、夢を失えばただのパン屋どころか、何にもなりません。 たびたび商品を街の子供や乞食に盗まれたりもしましたが、ミゼールは何も気にしませんでした。 そんなこと、何も気にする必要がないのです。 彼はただ毎日小麦を捏ね、パンを焼き、余ったお金で時折酒を飲み、 それだけだったので、些細な不幸には全く目が行き届きません。 彼に見えるのは、もう失って久しい小さな希望、ただそれだけ。 望もうと望むまいと彼にとって、この小さなパン屋は残り僅かな希望の灯だったのです。 それだけは決して失うまいと。 そう思って暮らしていました。 それからしばらくして、とある豪商の夫人の危篤の報せが街をにぎわせました。 噂では悪魔に取り憑かれたのだと聞きます。 どういう暮らしをしていたのか、ミゼールには知る由もありませんでしたが、 最期は夫と共に階段から転げ落ちて亡くなったのだと知らされました。 ただ一度、溜息が空に零れて、そしてミゼールはまたパンを焼き始めました。 彼は希望を失っていませんでした。 いえ。 正確には遥か昔にもう失っていたのです。 それでも灯り続けるその希望の灯は、過去という甘い幻想が生み出したイミテーション。 その小さな灯火で、彼は生涯パンを焼き続けました。 誰も愛さず、誰にも語らず。 決して美味くもない安物のパンを、彼はずっと焼き続けたのです。 Fin.