時の断片V:ある兄妹の記録 昔、あるところに仲の良い兄妹がおりました。 両親は既に亡く、けれども裕福な家庭に生まれた彼らは、 残された財産と、お屋敷と、それと優しい侍従たちの下で幸福さながらに暮らしました。 兄は冴え渡った知恵と何者にも屈しない勇敢さを備え、 妹は陽だまりのような温かさと誇り高く強い意志を持っていました。 二人は寄り添うように育ち、暮らし、いつまでもその幸福が続くと信じていました。 もちろん、そんなもの、あるはずはないのです。 親の残した遺産。 それはまだ未熟な二人が持つには不相応なだけの額がありました。 街の一角を丸々買い込めるだけのその額は、少年と少女の命を脅かすには十分すぎたのです。 それを狙っている者は多く、本来なら彼らを守るべきはずの二人の叔父達でさえもその中に含まれました。 後見という名目さえ立てば、財産を自由にする権利を得られる。 そういう理由もあって、二人の叔父達は彼らの知らないところで熾烈な戦いを繰り広げていました。 時に、人死にが出てしまうほどに。 狙っているのは彼らだけではありません。 誰もが狙う機会を持っているのです。 ほんの少し、少年、あるいは少女の体を掠め取ってくるだけで、 身代金と称して莫大な金が手に入る――そんな不吉な夢を見せてしまうものなのです。 そういう事情を少なからず、幼い兄妹たちは親代わりの老執事から知らされていましたが、 世間の言う危機の重さを子供の身で計るには、まだ幼すぎました。 十二歳と十歳の子供に、一体何が出来るかと言えば、 せいぜい書を学び、騎士物語に思いを馳せ、礼儀作法をしつけられる程度なのです。 親を亡くしたせいか、他の子よりは比較的「保身」については頭が及んでいる彼らでしたが、 それでもまだ、どうあっても「まだ、子供」であったのです。 そのことだけは、覆しようもない無力でした。 そうして。 不幸は二重三重に重なり合って、兄と妹を引き離すことになりました。 叔父たちが私兵を連れて乗り込んで来たその日、 この一帯を縄張りにする盗賊団が街そのものへ大挙して攻め込んできたのです。 多くが焼かれ、多くが殺され、多くが奪われ、犯されました。 死ぬ必要の無い者が死に、死ぬべき者が笑い、腹と心を満たしていきました。 そういう理不尽もまた世の摂理。 一度放たれた火は、全てを焼き尽くすまで止まることはないのでした。 兄と妹は、叔父たちが混乱しているうちに、老執事の助けを得て屋敷の外に出ておりました。 付き添いのメイド二人と、私兵が三人ほど同行して。 彼らが生き残る方法は限られておりました。 焼けていく街を離れ、せめて盗賊に見つからないところまで行こう、と。 王城のあるベナンまでいければ助かる、と。 そう信じて、彼らは西に向けて出ようと。 ――そうして。 「おい! 身なりのいいガキがいる! 女もだ!」 運命の手から、逃れることは出来ませんでした。 兄は一人、街の外で涙を流し、喚き、けれど私兵に抱えられたまま走り去りました。 どうしようもありませんでした。 妹は盗賊にさらわれ、行方さえもわかりません。 生きているのか、死んでいるのか、もはや探す手立てさえもないのです。 無念と無力が兄である少年の心を蝕み、それは焔となって燃え盛りました。 ですが、何に対して猛ればいいのかわからず、少年はその静かな炎を絶やすことなく、 ただ一人、生きるために、その冴え渡った知恵を頼りに力を求めました。 魔術という、禁忌の力を。 −10年後−  青年の周囲にはむせ返るほどの煙が立ち込めていました。  何を焼けばこうなるのか、黒く、淀んだ煙です。  匂いはきつく、息をするのもためらうほどでしたが、青年は無表情にそこに立ち尽くしていました。 「…………」  眼下に転がるのは炭でしょう。  それと同じ形状のものはこの集落の至るところに転がっています。  十、二十では数え切れず、百、二百でようやく、と言ったところでしょうか。  その炭を青年は一つ蹴り飛ばすと、恐らくは「頭」だった部分が爆ぜて散りました。  意味はありません。ただ、彼がそうしたかっただけの話。  何も解決しませんし、彼自身の心も解決するはずもありませんでした。  残ったのは、ただ、炭だけ。  それと、青年の腕に抱かれた、見るも無残な女性の亡骸だけでした。 「…………」  何一つとして取り戻せたものはありません。  あの日を境として、青年には戻ってくるものなどありはしなかったのです。  ただ、時間を経て風化して、何もかもが変わってしまって、終わってしまって、  そして、彼自身の手でピリオドさえ打ってしまったので、もはや何もないのです。  だから、青年は立ち尽くすしかありませんでした。  かつて妹だった女性の、もはやモノとなってしまった体を抱えて。    気がつくと雨が降っていました。  煙は燻り、炭は黒い川となって大地を染めていきました。  やがていつかは全てが消え去ることでしょう。  青年はそれでも立ち尽くしていました。  頬を水滴が伝いましたが、それは涙でさえありません。  ただ、水滴が伝ったに過ぎないのです。 Fin.